身体にまつわる

西洋骨董〜の三巻はおもしろい。小野さんの「自分のこと大事にしたいとか思ったこと無いから」「でもそういうのって自分でもどうにもならないじゃない」とかで自分の性規範の緩さについて考えてしまう。不祥事が起こりそうになった時に別にいいやと思ってしまうのは何でなんだろう。これは避妊とかにも言えるけど。別にいいやって思ってしまう。いや、別によくないだろ、と道徳観念からは何とも言えるけど実感としては「別にどうなってもいいや」。性的なことが好きなのか、性的なことなんてどうでもいいからなのか、まあどっちもだろうなあ。というか、基本的にわたしは自分を傷つけることに無頓着というかむしろ傷つけたれみたいなとこがあって、その攻撃性が外へ向かうことはほとんどない。でもリストカットとかやる気はさらさら無いのは、痛いのは好きじゃないというのと、痕が残るようなことをするのがやだから。だから切っても切っても痛くなくてぺろっと傷が消えるのであればやってたんじゃないかと思う。(でもそれでは本式のリスカの人にとっては意味が無いんだろう)手首の先が無くなったらどうなるだろう、ということを考えることもよくあるので、アンプティーへの興味も自然に持っているらしい。棒みたいになるんだろうなーとよく考えている。でも足の先が無くなったら、とは思わない。手限定。前に矯正をしていた時に、歯を抜いたら麻酔液が漏れていて下唇の内側の感覚が完全に無くなったことがある。その時に私は口の中の肉を噛むのがおもしろくてずっと噛んでいたら、感覚が戻ってきた時すごい口内炎になっていて激痛が走った。と言うか普通に口の中から血が溢れるくらい噛んでいて、母に驚かれた記憶がある。それからしばらくそのでかい口内炎のせいでものが食べられなくて、馬鹿なことをしたもんだなあ・・と後悔しまくった。それはまあ特殊な例だけど、今でも小さな自己破壊は唇とか指の先とかでよくやっている。たぶんこのままやってると修復しなくなってくるんじゃないかと思うので、やめたいんだけどやめられない。不祥事の話に戻ると、不祥事の時は明確に自分が必要とされている感じがするのも嫌いではない。そこにははっきりとした理由があるなあと思える。たぶんそれは私じゃなくて、他の若い女の子でも同じことだろうと思うけど、それでも私がその規格を満たしていて必要とされているというのははっきりしている。それは中々いいものだと思う。いや、よくないか。つーかそんなことくらいでしかちゃんと必要としてもらえないんじゃないかと思っているんじゃないかと思う。暗い。
というか、今日の日記(?)は非常にどうしようもない内容だけど、特に今落ち込んでいるというわけではない。(何のフォローだ)確かに年末年始を一人で過ごすってことで寂しい気持ちはあるけど。これは今まで考えていたことのまとめ、という感じ。そういう偏向が自分にはあるなあと。まあみんなどっかこっかちょっとあれなところは持っているのではないか、と思っているので、これくらいは普通の範囲かなと思っているがそうでもないんだろうか。しかし不祥事に対する認識の甘さは周りから気をつけた方がいいと言われまくっているので、何とかしようと思う。会社に入ったらもっとそういうことがある、と言われ自分では「そんな機会どうやったら起こるんだ」くらいに思っているのだけれど、お酒を飲んでぐだぐだになっているときは「とにかくどっかで横になりたい」とか思ってしまうので、とりあえず飲む量を自分でコントロールする所から始めようと思う。完全に酔っ払っていいのは女子の家飲みと彼氏(空想)の前だけ、ということで。